<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>リュウグウノツカイ</title><link href="https://popolo.amebaownd.com"></link><subtitle>漣（さざなみ）の趣味のためのサンクチュアリです。&#xA;&#xA;使用しているイラストや写真、文などの転用・転載等堅く&#xA;お断りしております。</subtitle><id>https://popolo.amebaownd.com</id><author><name>さざなみ。</name></author><updated>2017-05-03T16:19:42+00:00</updated><entry><title><![CDATA[金城一国斎（きんじょういっこくさい）]]></title><link rel="alternate" href="https://popolo.amebaownd.com/posts/2339713/"></link><id>https://popolo.amebaownd.com/posts/2339713</id><summary><![CDATA[江戸後期から続く漆芸家一門。■金城一国斎(初代)生年：安永6年(1777)没年：嘉永4.4.4(1851.5.4)尾張家御小納戸御用塗師。■金城一国斎(二代目)鎌倉や長崎で様々な漆芸妓法を学び高盛絵を考案した。■金城一国斎(三代目)（1829～1915）全国各地を回って漆芸技法を学び高盛絵を完成させたと言われている。明治期に国内外の博覧会で大活躍した。【作風】生地が見えるように漆を塗ったり、高盛絵という技法を使用している。白漆など黄ばんでしまうような難しい素材にも挑戦されている。―――――――――――※文引用元　：　wikipedia　開運！なんでも鑑定団　ニュースなど※作家ページは新しい情報が入り次第予告なく更新されます]]></summary><author><name>さざなみ。</name></author><published>2017-05-03T16:19:42+00:00</published><updated>2017-05-12T16:37:36+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p><br></p><p>江戸後期から続く漆芸家一門。<br></p><h3>■金城一国斎(初代)</h3><h4>生年：安永6年(1777)<br>没年：嘉永4.4.4(1851.5.4)</h4><p>尾張家御小納戸御用塗師。<br></p><p><br></p><h3>■金城一国斎(二代目)</h3><p>鎌倉や長崎で様々な漆芸妓法を学び高盛絵を考案した。<br></p><p><br></p><h3>■金城一国斎(三代目)</h3><h4>（1829～1915）</h4><p>全国各地を回って漆芸技法を学び高盛絵を完成させたと言われている。<br></p><p>明治期に国内外の博覧会で大活躍した。</p><p><br></p><p><b>【作風】</b></p><p>生地が見えるように漆を塗ったり、高盛絵という技法を使用している。</p><p>白漆など黄ばんでしまうような難しい素材にも挑戦されている。</p><p>―――――――――――</p><p>※文引用元　：　wikipedia　開運！なんでも鑑定団　ニュースなど</p><p>※作家ページは新しい情報が入り次第予告なく更新されます<br></p><p><br></p><p data-placeholder=""><br></p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[棟方志功作品―まとめ―]]></title><link rel="alternate" href="https://popolo.amebaownd.com/posts/2339659/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/226175/6c919e338efc4a7902e8ce686e025b86_e556902c9899ff281a4d1165861b3654.jpg"></link><id>https://popolo.amebaownd.com/posts/2339659</id><summary><![CDATA[雰囲気が解りやすいよう、自作のイラストを掲載しておりますが二次利用、転載等堅くお断り申し上げます。また、新たな情報が入り次第、予告なく修正＆更新されます。【作品】 ――――――――――― ■板画・「二菩薩釈迦十大弟子」 ・「御鷹揚げの妃々達々」 ・「大和し美し」　棟方志功記念館 蔵 ・「東海道棟方板画」 ・「星座の花嫁」　棟方志功記念館 蔵  ■油絵・「自画像」 ・「雪国風景図」 ・「八甲田山麓図」　青森県立美術館 蔵・「初冬風景図」　棟方志功記念館 蔵・「雑園習作」　棟方志功記念館 蔵　帝展入選 ・「群青・ちよゑ昼寝」・「令明堂と雑華山館家族達」・「御魚類図」・「黄昏に寄る子供たち」　棟方志功記念館 蔵 ・「大印度厖濃図」　棟方志功記念館 蔵 ・「八面閣図」　棟方志功記念館 蔵・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵　２点ある？■何でも鑑定団 （タイトルないものは適当につけてます→ご容赦）・「神社にある神木ー大きな松ー」　200万円↓↓]]></summary><author><name>さざなみ。</name></author><published>2017-05-03T15:49:55+00:00</published><updated>2017-05-03T15:49:55+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p data-placeholder="">雰囲気が解りやすいよう、自作のイラストを掲載しておりますが</p><p data-placeholder="">二次利用、転載等堅くお断り申し上げます。</p><p data-placeholder="">また、新たな情報が入り次第、予告なく修正＆更新されます。</p><p data-placeholder=""><br></p><h3>【作品】&nbsp;</h3><p>―――――――――――&nbsp;</p><h4>■板画</h4><p>・「二菩薩釈迦十大弟子」&nbsp;</p><p>・「御鷹揚げの妃々達々」&nbsp;</p><p>・「大和し美し」　棟方志功記念館 蔵&nbsp;</p><p>・「東海道棟方板画」&nbsp;</p><p>・「星座の花嫁」　棟方志功記念館 蔵&nbsp;</p><h4>&nbsp;■油絵</h4><p>・「自画像」&nbsp;</p><p>・「雪国風景図」&nbsp;</p><p>・「八甲田山麓図」　青森県立美術館 蔵</p><p>・「初冬風景図」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「雑園習作」　棟方志功記念館 蔵　帝展入選&nbsp;</p><p>・「群青・ちよゑ昼寝」</p><p>・「令明堂と雑華山館家族達」</p><p>・「御魚類図」</p><p>・「黄昏に寄る子供たち」　棟方志功記念館 蔵&nbsp;</p><p>・「大印度厖濃図」　棟方志功記念館 蔵&nbsp;</p><p>・「八面閣図」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵　２点ある？</p><p>■何でも鑑定団 （タイトルないものは適当につけてます→ご容赦）</p><p>・「神社にある神木ー大きな松ー」　200万円↓↓</p>
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			<p><br></p><p><br></p><p>■行方不明

「宇宙讃（うちゅうさん）（神奈雅和（かながわ）の柵）」版画 &nbsp;</p><p>横約６５センチ、縦約５０センチ。

　神奈川県が４０年以上前に棟方志功に特別に制作を依頼し、３００万円で購入した版画。

　いつの間にかカラーコピーの複製に入れ替わっており、２０１４年に開かれた展覧会で、

　観覧者に指摘されて発覚。約３年間、本物を探したが見つからず、県が2017年４月１７

　日に発表した。

　盗難に遭ったとみて県警に被害届を出す方針。

　県民ホールの開館に合わせ、緞帳（どんちょう）の原画として晩年の棟方に制作を依頼

　したものという。

　県が１９７４年１０月に受け取り、緞帳制作会社に一時期預けた後、額に入れて館長室

　に展示していた。

　本物は和紙に刷られたものだったが、コピーされたのは普通紙。上下逆さまに額に貼り

　付けてしまったとみられ、台紙の裏に取り付けられていた、額をつり下げるためのひも

　の位置を変えた形跡があった。&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;―――――――――――</p><p data-placeholder=""><br></p><p data-placeholder="">sazanami</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[古賀 忠雄　(こが ただお)]]></title><link rel="alternate" href="https://popolo.amebaownd.com/posts/2323559/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/226175/d07e1b0adebe752b47d8f1dd1474f505_0d004bd25f6314920860af885caa1d94.jpg"></link><id>https://popolo.amebaownd.com/posts/2323559</id><summary><![CDATA[■生誕　：　1903年9月5日■死没　：　1979年（満76歳） ■出身　：　佐賀県日本の美術家。 作品の多くは郷里の佐賀県立美術館に隣接する佐賀城公園に「古賀忠雄 彫刻の森」として常設展示されている。  【来歴】 ――――――――――― ■1903年（明治36年）佐賀市に生まれる。佐賀県師範学校附属小学校（現佐賀大学文化教育学部附属小学校）高等科を卒業後、県立有田工業学校（現県立有田工業高等学校）絵画科へ入学。同校在学中に日本画家・腹巻丹丘よりその手腕を認められ、東京美術学校（現東京芸術大学） 彫刻科塑像部本科へ入学。 ■1929年（大正18年）「仏心」で第10回帝展入選。■1939年（昭和14年）「岬の男」で第3回文展（現日展）特選を受賞。■1943年（昭和18年）4月、「建つ大東亜」で帝国芸術院賞受章■1945年（昭和20年）日展委員に就任。練馬にアトリエを構え彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表する。■1967年（昭和42年）日本芸術院会員となって以降、日本彫刻会理事長を始め複数の要職に就いた。■1979年（昭和54年）死去。享年77（満76歳没）。――――――――――― 【作風】――――――――――― 日本を代表する具象彫刻家。リアルな人物像が多いが、1970年の前半に一種の心象風景として牛と人物を組み合わせた作品を多く作っている。――――――――――― 【作品】――――――――――― ・想（1965） 　　佐賀県立美術館　蔵・草原を行く（1971） 　　佐賀県立美術館　蔵・起つ大東亜（第5回文展出品、帝国芸術院賞） ・現代を見つめる西郷隆盛（鹿児島県霧島市・西郷公園） ■何でも鑑定団・牛のブロンズ像　８０万円]]></summary><author><name>さざなみ。</name></author><published>2017-04-29T12:17:28+00:00</published><updated>2017-05-13T06:03:52+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h4>■生誕　：　1903年9月5日<br>■死没　：　1979年（満76歳）&nbsp;<br>■出身　：　佐賀県</h4><p>日本の美術家。&nbsp;</p><p>作品の多くは郷里の佐賀県立美術館に隣接する佐賀城公園に「古賀忠雄 彫刻の森」として</p><p>常設展示されている。&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><br></p><h3>【来歴】</h3><p>&nbsp;―――――――――――&nbsp;</p><p><b>■1903年（明治36年）</b></p><p>佐賀市に生まれる。</p><p>佐賀県師範学校附属小学校（現佐賀大学文化教育学部附属小学校）高等科を卒業後、</p><p>県立有田工業学校（現県立有田工業高等学校）絵画科へ入学。</p><p>同校在学中に日本画家・腹巻丹丘よりその手腕を認められ、東京美術学校（現東京芸術大学）&nbsp;</p><p>彫刻科塑像部本科へ入学。&nbsp;</p><p><b>■1929年（大正18年）</b></p><p>「仏心」で第10回帝展入選。</p><p><b>■1939年（昭和14年）</b></p><p>「岬の男」で第3回文展（現日展）特選を受賞。</p><p><b>■1943年（昭和18年）</b></p><p>4月、「建つ大東亜」で帝国芸術院賞受章</p><p><b>■1945年（昭和20年）</b></p><p>日展委員に就任。</p><p>練馬にアトリエを構え彫刻を中心に陶器・絵画など様々な分野の作品を発表する。</p><p><b>■1967年（昭和42年）</b></p><p>日本芸術院会員となって以降、日本彫刻会理事長を始め複数の要職に就いた。</p><p><b>■1979年（昭和54年）</b></p><p>死去。享年77（満76歳没）。</p><p>―――――――――――&nbsp;<br></p><p><br></p><p><br></p><h3>【作風】</h3><p>―――――――――――&nbsp;</p><p>日本を代表する具象彫刻家。</p><p>リアルな人物像が多いが、1970年の前半に一種の心象風景として牛と人物を組み合わせた作品を多く作っている。</p><p>―――――――――――&nbsp;</p><p><br></p><p><br></p><h3>【作品】</h3><p>―――――――――――&nbsp;</p><p>・想（1965） 　　佐賀県立美術館　蔵<br></p><p>・草原を行く（1971） 　　佐賀県立美術館　蔵<br></p><p>・起つ大東亜（第5回文展出品、帝国芸術院賞）&nbsp;</p><p>・現代を見つめる西郷隆盛（鹿児島県霧島市・西郷公園）</p><p><b>&nbsp;■何でも鑑定団</b></p><p>・牛のブロンズ像　<b>８０万円</b></p>
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			<p data-placeholder=""><br></p><p>&nbsp;―――――――――――</p><p>※文引用元　：　wikipedia　開運！なんでも鑑定団　ニュースなど&nbsp;</p><p>※作家ページは新しい情報が入り次第予告なく更新されます</p>
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	]]></content></entry><entry><title><![CDATA[棟方 志功　(むなかた　しこう)]]></title><link rel="alternate" href="https://popolo.amebaownd.com/posts/2314948/"></link><id>https://popolo.amebaownd.com/posts/2314948</id><summary><![CDATA[■生誕　：　1903年9月5日■死没　：　1975年9月13日（満72歳）■出身　：　青森県日本人の版画家。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。【来歴】―――――――――――■1903年（明治36年）刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。豪雪地帯出身のため、囲炉裏のススで眼を病み、以来極度の近視となる。■1921年（大正10年）弁護士控所　給仕をしていた18歳の時、友人から雑誌『白樺』に掲載されたゴッホの『向日葵』を見せてもらい、大いに驚嘆し、「わだはゴッホになる」とつぶやき進むべき道を見つける。※白樺とは、1910年4月に創刊され、1923年8月に廃刊された文芸雑誌・美術雑誌。※ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある。■1924（大正13年）東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。■1928（昭和3年）第9回帝展に「雑園」（油絵）を出品し、入選する。■1930（昭和5年）文化学院で美術教師を務める。■1932（昭和7年）日本版画協会会員となる。伊豆大島旅行に行く。■1934（昭和9年）佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。■1936（昭和11年）国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことに｡■1945（昭和20年）戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町（現南砺市）に移住。志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。■1946（昭和21年）富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎（りうがさい）」と名付けた。また住居は谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑（あいぜんえん）」と呼んだ。現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。■1956（昭和31年）ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。■1969（昭和44年）2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。■1972（昭和47年）2月、草野心平とインドを旅行。初夏には信州に油絵写生旅行に出掛け、夏には庭に咲いた八重咲きのひまわりをひたすら描き続けた。■1975（昭和50年）9月13日、東京にて肝臓癌のため永眠。同日付で贈従三位。青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある 。―――――――――――【作風・人物】―――――――――――版画家として有名だが、そもそも油絵画家として出発しており終生油絵を描き続けている。本格的な美術教育を受けていなかったためデッサン能力がなく、写実を基本とする洋画壇から全く評価されない日々が続いた。帝展に入選した「雑園習作」制作後以降、生来弱視の自分には写実は向いていないと自覚。さらに、版画家川上澄夫の「初夏の風」に触発されたことで版画家の道に突き進むことになる。1932年、伊豆大島に行った際、まばゆい光とそれに生える自然美に圧倒され、これからは版画では黒と白を生かし、油絵では原色で交じりっけのないものを描こうとの思いに至った。■油絵について「わたくしは油絵を描くことが版画や日本画を為すよりもわたくしをさらに真裸にしているのを知っています」棟方志功にとって油絵は内的感情をぶつける手段であって、どんなものを描いても、一気呵成。感動が覚めない内に望みの色を塗りこめてしまう。「かつて油絵で立とうと思いながら油絵そのものに不足を感じ版画を本業とするようになりましたが今でも油絵で表現したい気持ちは抜けきれません」―――――――――――【制作の仕方】―――――――――――大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。―――――――――――【評価】―――――――――――棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。―――――――――――【逸話】―――――――――――写真家　土門拳と沖縄を旅した際、土門が写真を撮るより志功の油絵の方が早かったという逸話が残されている。―――――――――――【志功が影響を受けた作家】―――――――――――■フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ画家を目指すきっかけになった。■家川上澄夫版画家を目指すきっかけになった。■萬鉄五郎最も敬愛したと言われており、フォービスムの影響を受けた。※フォービスムとは、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチ、感覚を重視している作風に用いられる言葉。（20世紀初頭の絵画運動の名称）別名野獣派。―――――――――――【作品】―――――――――――■板画・「二菩薩釈迦十大弟子」・「御鷹揚げの妃々達々」・「大和し美し」　棟方志功記念館 蔵・「東海道棟方板画」・「星座の花嫁」　棟方志功記念館 蔵■油絵・「自画像」・「雪国風景図」・「八甲田山麓図」　青森県立美術館 蔵・「初冬風景図」　棟方志功記念館 蔵・「雑園習作」　棟方志功記念館 蔵　帝展入選・「群青・ちよゑ昼寝」・「令明堂と雑華山館家族達」・「御魚類図」・「黄昏に寄る子供たち」　棟方志功記念館 蔵・「大印度厖濃図」　棟方志功記念館 蔵・「八面閣図」　棟方志功記念館 蔵・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵　２点ある？■何でも鑑定団■行方不明「宇宙讃（うちゅうさん）（神奈雅和（かながわ）の柵）」版画　横約６５センチ、縦約５０センチ。　神奈川県が４０年以上前に棟方志功に特別に制作を依頼し、３００万円で購入した版画。　いつの間にかカラーコピーの複製に入れ替わっており、２０１４年に開かれた展覧会で、　観覧者に指摘されて発覚。約３年間、本物を探したが見つからず、県が2017年４月１７　日に発表した。　盗難に遭ったとみて県警に被害届を出す方針。　県民ホールの開館に合わせ、緞帳（どんちょう）の原画として晩年の棟方に制作を依頼　したものという。　県が１９７４年１０月に受け取り、緞帳制作会社に一時期預けた後、額に入れて館長室　に展示していた。　本物は和紙に刷られたものだったが、コピーされたのは普通紙。上下逆さまに額に貼り　付けてしまったとみられ、台紙の裏に取り付けられていた、額をつり下げるためのひも　の位置を変えた形跡があった。―――――――――――※文引用元　：　wikipedia　開運！なんでも鑑定団　ニュースなど※作家ページは新しい情報が入り次第予告なく更新されますownd行間広すぎ。。テキストの文字の大きさも大して変えられないし色も変えられないなんて。。つかいづらい。。]]></summary><author><name>さざなみ。</name></author><published>2017-04-27T08:15:21+00:00</published><updated>2017-05-01T12:36:57+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p data-placeholder=""><br></p><h4>■生誕　：　1903年9月5日<br>■死没　：　1975年9月13日（満72歳）<br>■出身　：　青森県</h4><p style="text-align: left;">日本人の版画家。</p><p style="text-align: left;">20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。</p><p style="text-align: left;"><br></p><h3>【来歴】</h3><p>―――――――――――</p><p><b>■1903年（明治36年）</b></p><p>刀鍛冶職人である棟方幸吉とさだの三男として生まれる。</p><p>豪雪地帯出身のため、囲炉裏のススで眼を病み、以来極度の近視となる。</p><p><b>■1921年（大正10年）</b></p><p>弁護士控所　給仕をしていた18歳の時、友人から雑誌『白樺』に掲載されたゴッホの『向日葵』を見せてもらい、大いに驚嘆し、</p><p>「わだはゴッホになる」とつぶやき進むべき道を見つける。</p><p>※白樺とは、1910年4月に創刊され、1923年8月に廃刊された文芸雑誌・美術雑誌。</p><p>※ゴッホとは個人ではなく絵描きという職業のことだと思っていた、という説がある。</p><p><b>■1924（大正13年）</b></p><p>東京へ上京する。帝展や白日会展などに油絵を出品するが、落選が続いた。</p><p><b>■1928（昭和3年）</b></p><p>第9回帝展に「雑園」（油絵）を出品し、入選する。</p><p><b>■1930（昭和5年）</b></p><p>文化学院で美術教師を務める。</p><p><b>■1932（昭和7年</b>）</p><p>日本版画協会会員となる。</p><p>伊豆大島旅行に行く。</p><p><b>■1934（昭和9年）</b></p><p>佐藤一英の詩「大和し美し」を読んで感動、制作のきっかけとなる。</p><p><b>■1936（昭和11年</b>）</p><p>国画展に出品の「大和し美し」が出世作となり、これを機に柳宗悦、河井寛次郎ら民芸運動の人々と交流する様になり、以降の棟方芸術に多大な影響を及ぼすことに｡</p><p><b>■1945（昭和20年）</b></p><p>戦時疎開のため富山県西礪波郡福光町（現南砺市）に移住。</p><p>志功はこの地の自然をこよなく愛し、また多くの作品を残した。</p><p><b>■1946（昭和21年）</b></p><p>富山県福光町栄町に住居を建て、自宅の8畳間のアトリエを「鯉雨画斎（りうがさい）」と名付けた。</p><p>また住居は谷崎潤一郎の命名にて「愛染苑（あいぜんえん）」と呼んだ。</p><p>現在は栄町にあった住居を移築保存し、鯉雨画斎として一般公開している。</p><p><b>■1956（昭和31年）</b></p><p>ヴェネツィア・ビエンナーレに「湧然する女者達々」などを出品し、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞。</p><p><b>■1969（昭和44年）</b></p><p>2月17日、青森市から初代名誉市民賞を授与され、翌年には文化勲章を受章する。</p><p><b>■1972（昭和47年</b>）</p><p>2月、草野心平とインドを旅行。</p><p>初夏には信州に油絵写生旅行に出掛け、夏には庭に咲いた八重咲きのひまわりを</p><p>ひたすら描き続けた。</p><p><b>■1975（昭和50年）</b></p><p>9月13日、東京にて肝臓癌のため永眠。同日付で贈従三位。</p><p>青森市の三内霊園にゴッホの墓を模して作られた「静眠碑」と名付けられた墓がある&nbsp;。</p><p>―――――――――――</p><p><br></p><h3>【作風・人物】</h3><p>―――――――――――</p><p>版画家として有名だが、そもそも油絵画家として出発しており終生油絵を描き続けている。</p><p>本格的な美術教育を受けていなかったためデッサン能力がなく、写実を基本とする洋画壇から全く評価されない日々が続いた。</p><p>帝展に入選した「雑園習作」制作後以降、生来弱視の自分には写実は向いていないと自覚。</p><p>さらに、版画<b>家川上澄夫</b>の「初夏の風」に触発されたことで版画家の道に突き進むことになる。</p><p>1932年、伊豆大島に行った際、まばゆい光とそれに生える自然美に圧倒され、これからは版画では黒と白を生かし、油絵では原色で交じりっけのないものを描こうとの思いに至った。</p><p><br></p><h4>■油絵について</h4><p>「わたくしは油絵を描くことが</p><p>版画や日本画を為すよりも</p><p>わたくしを</p><p>さらに真裸にしているのを知っています」</p><p>棟方志功にとって油絵は内的感情をぶつける手段であって、どんなものを</p><p>描いても、一気呵成。</p><p>感動が覚めない内に望みの色を塗りこめてしまう。</p><p style="text-align: left;">「かつて油絵で立とうと思いながら</p><p style="text-align: left;">油絵そのものに不足を感じ</p><p style="text-align: left;">版画を本業と</p><p style="text-align: left;">するようになりましたが</p><p style="text-align: left;">今でも油絵で</p><p style="text-align: left;">表現したい気持ちは</p><p style="text-align: left;">抜けきれません」</p><p style="text-align: left;">―――――――――――</p><p><br></p><h3>【制作の仕方】</h3><p>―――――――――――</p><p>大変な近視の為に眼鏡が板に付く程に顔を近づけ、軍艦マーチを口ずさみながら板画を彫った。</p><p>―――――――――――</p><p><br></p><h3>【評価】</h3><p>―――――――――――</p><p>棟方の肉筆画作品は「倭画」と言われ、国内外で板画と同様に評価を受けている。</p><p>―――――――――――</p><p><br></p><h3>【逸話】</h3><p>―――――――――――</p><p>写真家　土門拳と沖縄を旅した際、土門が写真を撮るより志功の油絵の方が早かったという逸話が残されている。</p><p>―――――――――――</p><p><br></p><h3>【志功が影響を受けた作家】</h3><p>―――――――――――</p><p><b>■フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ</b></p><p>画家を目指すきっかけになった。</p><p><b>■家川上澄夫</b></p><p>版画家を目指すきっかけになった。</p><p><b>■萬鉄五郎</b></p><p>最も敬愛したと言われており、フォービスムの影響を受けた。</p><p>※フォービスムとは、原色を多用した強烈な色彩と、激しいタッチ、感覚を重視している作風に用いられる言葉。（20世紀初頭の絵画運動の名称）別名野獣派。</p><p>―――――――――――</p><p><br></p><h3>【作品】</h3><p>―――――――――――</p><p><b>■板画</b></p><p>・「二菩薩釈迦十大弟子」</p><p>・「御鷹揚げの妃々達々」</p><p>・「大和し美し」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「東海道棟方板画」</p><p>・「星座の花嫁」　棟方志功記念館 蔵</p><p><b>■油絵</b></p><p>・「自画像」</p><p>・「雪国風景図」</p><p>・「八甲田山麓図」　青森県立美術館 蔵</p><p>・「初冬風景図」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「雑園習作」　棟方志功記念館 蔵　帝展入選</p><p>・「群青・ちよゑ昼寝」</p><p>・「令明堂と雑華山館家族達」</p><p>・「御魚類図」</p><p>・「黄昏に寄る子供たち」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「大印度厖濃図」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「八面閣図」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵</p><p>・「太陽花」　棟方志功記念館 蔵　２点ある？</p><p><b>■何でも鑑定団</b></p><p><b>■行方不明</b></p><p>「宇宙讃（うちゅうさん）（神奈雅和（かながわ）の柵）」版画</p><p>　横約６５センチ、縦約５０センチ。</p><p>　神奈川県が４０年以上前に棟方志功に特別に制作を依頼し、３００万円で購入した版画。</p><p>　いつの間にかカラーコピーの複製に入れ替わっており、２０１４年に開かれた展覧会で、</p><p>　観覧者に指摘されて発覚。約３年間、本物を探したが見つからず、県が2017年４月１７</p><p>　日に発表した。</p><p>　盗難に遭ったとみて県警に被害届を出す方針。</p><p>　県民ホールの開館に合わせ、緞帳（どんちょう）の原画として晩年の棟方に制作を依頼</p><p>　したものという。</p><p>　県が１９７４年１０月に受け取り、緞帳制作会社に一時期預けた後、額に入れて館長室</p><p>　に展示していた。</p><p>　本物は和紙に刷られたものだったが、コピーされたのは普通紙。上下逆さまに額に貼り</p><p>　付けてしまったとみられ、台紙の裏に取り付けられていた、額をつり下げるためのひも</p><p>　の位置を変えた形跡があった。</p><p>―――――――――――</p><p>※文引用元　：　wikipedia　開運！なんでも鑑定団　ニュースなど</p><p>※作家ページは新しい情報が入り次第予告なく更新されます</p><p><br></p><p>ownd行間広すぎ。。</p><p>テキストの文字の大きさも大して変えられないし色も変えられないなんて。。</p><p>つかいづらい。。</p>
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